うつのみや高明の歩み

うつのみや高明の歩み

大学時代

1966年 全日本学生雄弁大会にて優勝

「我国外交への参考意見」
第二次世界大戦が私たちに教えてくれたものは国際協力による平和な世界を作ることでした。しかし、二十年を経過した今日、ベトナムでは赤い炎がもえており、中国では核開発が急ピッチに進められている。我国は今こそ「アジアの中の外交」を強く進めるべきであります。そこで、豪州、印度とん結ぶ広報政治経済圏の確立が我国のアジア外交、自由外交へと進めるみちだと考えます。

成田との出会い

【中央大学時代(昭和40年~44年)は、学生運動とベトナム戦争の真っただ中でした。この時、ベトナムの留学生支援をつうじて、現在「花と緑の運動」をしている素晴らしい仲間と出会い、以来50年共に活動をしています。

6年間理事長を務めていただいた長嶋 茂雄さん(前巨人軍監督)からは、多くのことを学びました。

― ベトナム戦争と花と緑の運動 ―

1995年4月
meet_img02私の大学時代(S40~S44)は、学生運動とベトナム戦争の真っただ中でした。下に載せた文章は、当時アジア青年親交会設立のために私が書いた趣意書です。この会の代表として、サイゴン(現在のホーチミン)で接した戦争によって、いかに日本が自由ですばらしい国であるかを肌で学ぶことができました。
これらの運動をつうじて知り合った仲間たちと、成田斗争の平和的終結と地域に根付いた空港づくりを目指しての、花と緑の運動に参加させていただいて40数年になります。「1986年春、種子をまきます、地球の片隅に。私達の心の中に。」長嶋 茂雄理事長のもとに発足した「花と緑の農芸財団」の出発でした。この時の思いを「百花誰がために開く」に託し、地域と空港の共生を求めつづけていきます。

― 趣 意 書―

アジアは流動している。それは新生アジア脱皮への胎動である。将来への大いなる可能性を秘めつつ。
誰でも、より豊かな人間らしい生活を享受する権利を有する。
しかしながら独立を果したものの、長年にわたる植民地支配は、アジアの人々が、自らの手で、自らの自由を手にすることすらも阻み、混乱と苦渋の中にその身を委ねなければならない道を与えたのである。
アジアはアジア人の手で!!
今やアジア諸国は、個人の尊厳を回復するとともに、経済的自立と政治的安定を目指し槌音も高らかに、邁進している。
にもかかわらず、新生アジアへの脱皮は遠く茨の道である。
この中にあって真の自由と繁栄を希求し、その根底となる人間性の信頼を培うことが、我々青年に課せられた義務である。
望みを抱いて喜び、困難に耐え、長い夜明け前の戦いに、青年として勇敢に立ち上がらなければならない。
リベラルな態度と真摯なる青年の交流は、一本の大きな流れとなり、明日の実りある平和なアジアの姿を約束するものである。
アジアを思う青年!!
アジアを耕す青年!!
アジアを築く青年!!
ここに集まり、共に行動しよう。

(当時の原文のまま)

就職・組合

新東京国際空港公団へ入社。(昭和44年~62年)約8年間の用地部の大半は妨害鉄塔の用地交渉に没頭しました。空港のために土地を手放さざるをえなかった地主さんの心情は、今でも私の政治に取り組む原点です。また、空港の主体になることを目指して、労働組合を結成し、3期委員長を務めました。
― 組合結成前夜の緊張感、これはもうあれですよ!ガハハハッツ! ―

空公労結成時の中核メンバーのひとり。他の追随を許さぬエネルギッシュな行動力は、空公労創成期のターボエンジンそのもの。そのパワフルなスタイルが今だ健在なのは衆人が認めるところである。(新東京国際空港公団労働組合30年史より)

私は、昭和46年9月に行われた代執行時の職場代表、苦情処理委員会委員長を務めさせていただいたのですが、この頃から組合結成の気運は高まっていたように思います。苦情処理委員会は、公団側で設置したいわば官営の委員会で、「代執行というこれだけのことをやるというのに、こんな交渉でいいのか?」と思うくらいあっさりしたものでした。そして、東峰十字路での3警官の死亡事件。その後の公団側の対応は職員に対しても、また、地域に対してもこれでいいのか、との疑問を感じ、初代委員長の進藤さんを中心として空公労を結成したわけです。

1974年〜1975年、1981年中央執行委員長 
宇都宮高明

空港労50周年記念誌寄稿文 (2021年11月)-宇都宮高明-

結成50周年を機に 「我々が主体である」の 更なる進展を‼ 

空港労結成50周年おめでとうございます。 結成に直接参加した三期生のひとりとして、50年の歩みの中で空港労から頂いたご支援に感謝申し 上げるとともに「空港の主体は我々である」のより一層の進展を期待しています。そこで、空公労活動を思い返す中で、これからの空港労運動について綴ってみました。

 「主体とならなければの思い」
「開港に向けて、我々の主体性を確立しよう‼」これは一期開港に向けて色々な動きがあった 1975年8月の第7回定期大会スローガンです。この議案書の「たたかいの基調」には次のように書かれています。  「公団の弱さを自己批判し、開港への努力を自らの手で行う闘い。我々は一期業務の総点検を行 う中で、二期建設を押し進めていくとともに、騒音をはじめとする空港公害についても、お上の云 うままではなく独自の道を模索しなければ、地域と共有する空港はあり得ない。」   

「組合主催の海外主要空港研修」 
  日本最大の国際空港を建設し運営する空港公団の新入社員研修の一科目は、海外研修であると考えていましたし、今でもこの思いです。 しかし、「君達の昇進は課長代理まで」の時代にあって、自らが行うしかないと考え、1974年パリ空港公団等のヨーロッパ、1975年ダラス・フォートワース国際空港等のアメリカの主要空港研修を実施いたしました。「50年代、空港公団の主体を我々の手に‼」を実現するためのひとつの流れである海外研修によって、組合員の多くが日本を出たという事実に基づいて“国際空港・成田”を考えるチャンスを持つことができたことは、今後我々が空港公団を運営していく過程で何らかの支えになると考えている。」と報告書に記させて頂きました。   

「空港都市づくりに参画するために成田国際空港株式会社(NAA)法の整備を」
 かつて用地部で、石や火炎瓶の飛び交う中で業務した者として、更なる機能強化事業が計画通りに進むことを願っています。そこで、2,300ヘクタールの新空港完成後のNAAの役割は、空港運営に加えて、成田空港圏の都市づくりに直接参画することであり、そのためのNAA法の整備を望むものであります。韓国・仁川国際空港公社は、2017年に仁川経済自由区域拡張の許可を取得し、韓国政府も仁川を物流ハブ空港とすべく、同公社とともに計画を進めており、台湾・桃園国際空港の航空都市での物流経済貿易エリア等々、国際ハブ空港での自由貿易区域の整備は必須です。成田市は国家戦略特区として自由貿易地域を提案しましたが、市単独ではハードルが高く、国家プロジェクトとしてNAAが仁川公社のように中核となってもらいたいと考えています。また、騒音地区に膨大な土地を有するNAAとして、農地法に関する土地利用規制の緩和等も自治体とともに模索する時です。土地利用としては、昨年出された「2050年までに、日本は温室効果ガスの排出量を実質ゼロにする」との目標実現の一つとして、全国の空港周辺に再生可能エネルギーの拠点整備が進められようとしています。成田の騒音地区活用においては、NAAが参画するのは当然と思っています。コロナ後も襲来するであろう感染症対策においても、NAAとして備える必要があると考えますし、鉄道アクセスについても、新空港共用時には、現在の単線区間の複線化が終了するように今からの着手が望まれます。その他、2022年度開業予定の「羽田空港跡地第一ゾーン整備事業」からも学んでみたいものです。   

「リスキリング(学び直し)を 未来への投資として」 
コロナ禍にあって、デジタル化の遅れや生産性の低迷など、日本の課題の多くが人材投資の遅れに起因すると指摘されています。空港はもとより、空港都市づくりの主体となるべき皆様には、リスキリングを未来への投資として労使ともに努力して頂きたいと思っています。私は1972年から約1年間、日本・メキシコ政府交換留学生として留学させて頂きましたが、現在は当時とは違い、国や海外機関等への派遣や大学院での研修など、多方面との交流を通して人材の育成が行われています。結成50周年を機に、海外留学をはじめ研修制度がますます充実され、成田空港が日本再生の一翼を担われることを期待いたします。 

政府交換留学

日本・メキシコ政府交換留学生として約1年間(昭和47年~48年)メキシコ北部の都市モンテレーに留学。ものの見方・考え方の多様性を学びました。

― メキシコから日本へ送った手紙より ―
1973年、中部米大陸の霊峰ポポカテペトル(5452m)の日の出を仰ぎながら迎えております。 メキシコでの生活も7ヶ月が過ぎ高度なマヤ・アステカ文明に感嘆と驚きをおぼえるとともに、今まで学んだ世界史に少しの疑問を感じています。1492年、コロンブスの目には米大陸は新大陸の発見であったとしても、私には根本的に異質な文化の出会いとして見る方が事実に近いように思えます。雑煮代わりのケーキを食べながら「ものの見方・考え方」の多様性を考えさせられています。またこの偉大な古代帝国も異質の文化等を解せない狭い文化圏に存在したことが滅亡への要因であったことを思うと、戦後ただ米国文化に追従してきた黄金の国ジパングの足下も案外弱いものでは。では「さて、どうするか」………。 1973.1.1

青年会議所

豊かな地域づくりを目指して積極的に活動している青年会議所での活動は、異業種交流の重要性を体験させてくれました。(昭和56年・千葉ブロック会員大会委員長)

議会歴

成田市議会議長(第30代・第36代) 千葉県市議会議長会会長(平成23年~24年) 関東市議会議長会副会長(平成23年~24年)

【略歴】
昭和21年12月生 愛媛県西予市明浜町出身
中央大学卒業後、新東京国際空港公団へ入社
日本・メキシコ政府交換留学生として約1年間メキシコに留学
新東京国際空港公団労働組合委員長
日本青年会議所千葉ブロック会員大会委員長
成田市議会議長(第30代・第36代)
千葉県市議会議長会会長
関東市議会議長会副会長

うつのみや高明後援会
〒286-0037 千葉県成田市橋賀台2-4-1
TEL:0476-26-2620/FAX:0476-26-2517
e-mail:0220@t-utsunomiya.jp
ホームページ:http://www.t-utsunomiya.jp/

成田市議会議員 うつのみや高明

現在の活動

◯成田市議会議員(10期) ◯市議会空港対策特別委員会委員長 ◯千葉県地方議員連絡協議会会長 ◯自治体学会議員研究ネットワーク幹事 ◯花と緑の農芸財団理事 ◯成田ニュータウン自治会連合会相談役 ◯中央大学成田白門会会長 ◯成田ニュータウンスポーツ連盟事務局長 ◯成田コスモポリタンロータリークラブ会員 ◯構想日本会員

21世紀に生きる君たちへ 司馬遼太郎

さて、君たち自身のことである。君たちはいつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。…自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。そして、すなおでかしこい自己を。21世紀においては、特にそのことが重要である。21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。科学・技術がこう水のように人間をのみこんでしまってはならない。川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。

上において、私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても、自己中心におちいってはならない。人間は、助け合って生きているのである。私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。斜めの画が互いに支えあって、構成されているのである。そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくりたがいに助け合いながら生きているのである。

自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。「いたわり」「他人の痛みを感じとること」「やさしさ」みな似たようなことばである。この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、その都度自分の中でつくりあげていきさえすればいい。この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。 


※この記事は『21世紀に生きる君たちへ』司馬遼太郎さんのメッセージより抜粋したものです

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