プロフィールと活動のあゆみ

成田市議会議員 うつのみや高明
UTSUNOMIYA TAKAAKI

【略歴】
昭和21年12月生 愛媛県西予市明浜町出身
中央大学卒業後、新東京国際空港公団へ入社
日本・メキシコ政府交換留学生として約1年間メキシコに留学
新東京国際空港公団労働組合委員長
日本青年会議所千葉ブロック会員大会委員長
成田市議会議長(第30代・第36代)
千葉県市議会議長会会長
関東市議会議長会副会長
うつのみや高明後援会
〒286-0037 千葉県成田市橋賀台2-4-1
TEL:0476-26-2620/FAX:0476-26-2517
e-mail:0220@t-utsunomiya.jp
ホームページ:http://www.t-utsunomiya.jp/
顔写真


大学時代

組合結成前夜について語る中央大学時代(昭和40年~44年)は、学生運動とベトナム戦争の真っただ中でした。この時、ベトナムの留学生支援をつうじて、現在「花と緑の運動」をしている素晴らしい仲間と出会い、以来50年共に活動をしています。


成田との出会い ― ベトナム戦争と花と緑の運動 ―

1995年4月
meet_img02私の大学時代(S40~S44)は、学生運動とベトナム戦争の真っただ中でした。下に載せた文章は、当時アジア青年親交会設立のために私が書いた趣意書です。この会の代表として、サイゴン(現在のホーチミン)で接した戦争によって、いかに日本が自由ですばらしい国であるかを肌で学ぶことができました。
これらの運動をつうじて知り合った仲間たちと、成田斗争の平和的終結と地域に根付いた空港づくりを目指しての、花と緑の運動に参加させていただいて40数年になります。「1986年春、種子をまきます、地球の片隅に。私達の心の中に。」長嶋 茂雄理事長のもとに発足した「花と緑の農芸財団」の出発でした。この時の思いを「百花誰がために開く」に託し、地域と空港の共生を求めつづけていきます。

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6年間理事長を務めていただいた長嶋 茂雄さん
(前巨人軍監督)からは、多くのことを学びました。

趣 意 書

アジアは流動している。それは新生アジア脱皮への胎動である。将来への大いなる可能性を秘めつつ。
誰でも、より豊かな人間らしい生活を享受する権利を有する。
しかしながら独立を果したものの、長年にわたる植民地支配は、アジアの人々が、自らの手で、自らの自由を手にすることすらも阻み、混乱と苦渋の中にその身を委ねなければならない道を与えたのである。
アジアはアジア人の手で!!
今やアジア諸国は、個人の尊厳を回復するとともに、経済的自立と政治的安定を目指し槌音も高らかに、邁進している。
にもかかわらず、新生アジアへの脱皮は遠く茨の道である。
この中にあって真の自由と繁栄を希求し、その根底となる人間性の信頼を培うことが、我々青年に課せられた義務である。
望みを抱いて喜び、困難に耐え、長い夜明け前の戦いに、青年として勇敢に立ち上がらなければならない。
リベラルな態度と真摯なる青年の交流は、一本の大きな流れとなり、明日の実りある平和なアジアの姿を約束するものである。
アジアを思う青年!!
アジアを耕す青年!!
アジアを築く青年!!
ここに集まり、共に行動しよう。

(当時の原文のまま)


就職・組合

組合結成前夜について語る新東京国際空港公団へ入社。(昭和44年~62年)約8年間の用地部の大半は妨害鉄塔の用地交渉に没頭しました。空港のために土地を手放さざるをえなかった地主さんの心情は、今でも私の政治に取り組む原点です。また、空港の主体になることを目指して、労働組合を結成し、3期委員長を務めました。


組合結成前夜の緊張感、これはもうあれですよ!ガハハハッツ!

img_prof_03空公労結成時の中核メンバーのひとり。他の追随を許さぬエネルギッシュな行動力は、空公労創成期のターボエンジンそのもの。そのパワフルなスタイルが今だ健在なのは衆人が認めるところである。(新東京国際空港公団労働組合30年史より)

私は、昭和46年9月に行われた代執行時の職場代表、苦情処理委員会委員長を務めさせていただいたのですが、この頃から組合結成の気運は高まっていたように思います。苦情処理委員会は、公団側で設置したいわば官営の委員会で、「代執行というこれだけのことをやるというのに、こんな交渉でいいのか?」と思うくらいあっさりしたものでした。そして、東峰十字路での3警官の死亡事件。その後の公団側の対応は職員に対しても、また、地域に対してもこれでいいのか、との疑問を感じ、初代委員長の進藤さんを中心として空公労を結成したわけです。


「つち」と「コンクリート」

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関東愛媛県人会 会報 第143号 寄稿 (昭和54年5月15日発行)

黒潮騒ぐ宇和海を前に、蜜柑の花咲く段々畑を背にした東宇和郡明浜で生まれ育った私にとって、60メートルの成田空港管制塔より見渡す北総台地、関東平野の広がりは、「東京に行くと見渡す限り山が見えん。」との先輩の話を肌で感じさせてくれる。

この地に昨年5月20日に開港した成田空港にある夢を抱き入社して10年。見方は色々あるものの全国の新聞の一面を賑わしてきたエネルギーは、単に過激派による反対斗争とだけでは割り切れない面を多々内在しているように思われる。

現在の私の業務は用地交渉。空港の用地は面として必要なため家ぐるみの移転を行ってもらわなければならない場合が多い。先祖伝来の土地を自分の代で移らなければならなくなった当主の苦しみはたいへんなものであろう。それも自らの行動でなく、ある日、国が国際空港として線を引いたために降って沸いた一大変革である。土間に通されてお茶を出してもらうまでの努力。契約、代替地への移転・生産まで数年の間出入していくうちに自然に家号で話し合えるようになった時、地主と我々の関係は「公団の」ではなく「個と個」の信頼で結ばれている。(代替地でできたスイカを食べながらの世間話ほど心の安らぐものはない。)

ground_img02「百姓には作物のとれる土が必要であり、金で計れるものではない。土の中まで知るためには長い年月が要るし、部落のつながりの中での百姓であり、一人で新しい所に行ってもなかなか百姓はできるものではない。」この百姓の声は、昭和41年の決定より13年、一期開港予定より遅れること7年にしてやっと開港した「成田」が十分に考えねばならないことである。
いかに公のためと訴えても、我々から見れば好条件と思えども、それはあくまで空港を創る側のものであり、土に生きる者にとって土を変えることはたいへん厳しいことであり、転業するとなればサラリーマンが会社を変わる比ではないことを、起業者として十分に理解した上で行動しなければならない。2期工事・騒音等々やらなければならないことは多々あるが、「つち」を「コンクリ」に変えた責任を自らのものとし、北総の地に土着した国際空港成田になるための努力をせねばと考えている。

伊方原発問題等、郷里にも台風以外の嵐も出ている。「公」と「私」の出合いと共存。大変なことではあるが避けては通れない。

1979年、馬車とランプの時代ではない。2000年、地球の人口70億。

(明浜町出身、新東京国際空港公団主事)

政府交換留学

大統領夫人と日本・メキシコ政府交換留学生として約1年間(昭和47年~48年)メキシコ北部の都市モンテレーに留学。ものの見方・考え方の多様性を学びました。


メキシコから日本へ送った手紙より

img_prof_011973年、中部米大陸の霊峰ポポカテペトル(5452m)の日の出を仰ぎながら迎えております。
メキシコでの生活も7ヶ月が過ぎ高度なマヤ・アステカ文明に感嘆と驚きをおぼえるとともに、今まで学んだ世界史に少しの疑問を感じています。1492年、コロンブスの目には米大陸は新大陸の発見であったとしても、私には根本的に異質な文化の出会いとして見る方が事実に近いように思えます。雑煮代わりのケーキを食べながら「ものの見方・考え方」の多様性を考えさせられています。またこの偉大な古代帝国も異質の文化等を解せない狭い文化圏に存在したことが滅亡への要因であったことを思うと、戦後ただ米国文化に追従してきた黄金の国ジパングの足下も案外弱いものでは。では「さて、どうするか」………。

1973.1.1


‟500kmの物差し” ― 多様なものの見方・考え方を ―

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ここに3本の“500Kmの物差し”があります。


①「東京←552Km→新大阪」
我々日本人にとって最も代表的なものであり、東京から故郷愛媛への車中から見えた富士山はたいへん美しいものでした。

map_02_mexico②「モンテレー←535Km→サン・ルイス・ポトシ」第2の物差しの起点であるモンテレーとは、私が約1年間の留学生活を過ごしたメキシコ第3の都市(メキシコ北部、経済の中心地)であり、休みを利用して仲間と首都メキシコシチィまで数度ドライブをしました。約1000Kmの旅でしたが、その中間点にあるのがサン・ルイス・ポトシです。

モンテレーを出発しサルテイヨを経由してからの約500Kmは、集落はいっさいなく、ガソリンスタンドが3カ所あるだけ、ただただ南へ南へと走るだけの荒野の一本道でした。

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③「アムステルダム←547Km→パリ」第3の舞台はヨーロッパです。オランダ、ベルギー、フランスと3ヵ国をまたがって走っている国際列車の旅でした。島国の住人である私にとって1973年の「国を出る」は、なかなかのものでしたが、ここの500Kmは何の抵抗もなくスイスイと3ヵ国をまたいでいました。これらの“物差し”の相違は、世界にはさまざまな文化とそれを支える民族が存在し、相対的に世界を見ることの大切さを私に教えてくれました。わずか2年数ヶ月の21世紀ですが、中国、インドのアジアの文明やイスラム文明の展開により、知の世界地図は多様な変化を見せ始めています。21世紀の日本人の生き方を求める時、教育はますます重要です。そこで、海外留学は先生の必須科目です。


青年会議所

千葉ブロック会員大会パンフレットより豊かな地域づくりを目指して積極的に活動している青年会議所での活動は、異業種交流の重要性を体験させてくれました。(昭和56年・千葉ブロック会員大会委員長)


議会歴

成田市議会議長(第30代・第36代)
千葉県市議会議長会会長(平成23年~24年)
関東市議会議長会副会長(平成23年~24年)


現在の活動

◯成田市議会議員(9期) ◯千葉県地方議員連絡協議会会長代理 ◯自治体学会議員研究ネットワーク幹事 ◯花と緑の農芸財団理事 ◯成田ユネスコ協会副会長 ◯成田ニュータウン自治会連合会副会長 ◯成田ニュータウンスポーツ連盟事務局長 ◯中央大学北総白門会会長 ◯成田コスモポリタンロータリークラブ会員 構想日本会員 ◯(一社)成田医療2038研究所理事長

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